【物語】なぜ教会へ行くのか?


ある教会に集う人は新聞編集者に手紙を書き、「毎週日曜日に教会へ行くことは意味がない」と不満を言いました。


彼は次のように書いています。「わたしは教会に集って30年になりますが、その間3000回ほど説教を聞きましたが、わたしの人生の中で、それらの説教の一つも思い出すことができません。それでわたしは自分の時間を無駄にしていて、牧師も神父も説教をすることによって彼らの時間を無駄にしていると思いました。」


これは「編集者への手紙」のコラムの中で真の論争が始まりました。編集者にとってとてもうれしいことに、誰かが決め手となるものを書くまでそれは何週間も続きました。


「わたしは結婚して37年になります。その間わたしの妻は32000ほどの食事を作りました。しかしわたしの人生の中で、それらの食事の1つもメニュー全体を思い出すことができません。

しかし、わたしはこれを知っています。それらはすべてわたしに栄養を与え、わたしが仕事をするのに必要な力を与えてくれました。もしわたしの妻がそれらの食事をわたしに与えてくれなかったら、わたしは今日肉体的に死んでいたでしょう。

同様に、もしわたしが栄養のために教会に行かなかったなら、わたしは今日霊的に死んでいたでしょう。


信仰とは目に見えないもの見、信じ難いものを信じ、不可能なものを受けます。

私たちの肉体的、霊的栄養に神さまに感謝します。


(English)

Why Go to Church? 

 

A Church goer wrote a letter to the editor of a newspaper and complained that it made no sense to  go to church every Sunday. 

"I've gone for 30 years now," he wrote, "and in that time I have heard something like 3,000 sermons. But for the life of me, I can't remember a single one of them. So, I think I'm wasting my time and the pastors are wasting theirs by giving sermons at all."

This started a real controversy in the "Letters to the Editor" column, much to the delight of the editor. It went on for weeks until someone wrote this clincher:

 

"I've been married for 37 years now. In that time my wife has cooked some 32,000 meals. But, for the life of me, I cannot recall the entire menu for a single one of those meals, but I do know this. They all nourished me and gave me the strength I needed to do my work. If my wife had not given me these meals, I would be physically dead today. Likewise, if I had not gone to church for nourishment, I would be spiritually dead today!" When you are DOWN to nothing.... God is UP to something! Faith sees the invisible, believes the incredible and receives the impossible! 

Thank God for our physical AND our spiritual nourishment!

______________________________________

このお話の作者不明は不明です。知り合いの方が伝道部で知り合ったシニア宣教師の方から教えてもらったお話だそうです。

(宣教師のEmailのtitleにはいつも”Owl Post” とあるのでそこが引用元かもとのこと)


プライマリーや青少年の頃の教会で学んだ話は?と聞かれても、私も答えることができません。それでも、その時に行った家庭の夕べや、日曜学校、セミナリーなどがあって、今の私が作られています。

ベドナー長老は絵のたとえでこのように語っています。

「一回一回の家族の祈り,一回一回の家族の聖文学習,一回一回の家庭の夕べが,心のキャンバスに描かれた1本の線なのです。心を打ち記憶に残る出来事などないように思えるかもしれませんが,黄色や,金色や,茶色の絵の具で描いた一本一本が補い合って印象的な傑作を生み出すように,一見取るに足りないことを一貫して行うことで,意義深い霊的な実が得られるのです。」(「家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わる」『リアホナ』2009年11月号,19)

聖典では度々、「小さなことから大きなことが生じる」と書かれています。
記憶に残らないかもしれないような小さなことでも、毎日の選択で正しいことを選ぶなら、そこには確かにキリストへの信仰が成長している過程であることを証します。

Karin


コメント

人気の投稿